Takasaki Daruma

高崎だるま

達磨大師とは

紀元前四世紀の終わりごろ南インドの香至国という豊かで平和な国の第三王子として生まれました。やがて出家し、お釈迦様からの教えを継ぎ、より多くの人々にこの教えを広めようと、幾多の困難にもめげず海路はるばる中国へ布教伝導に渡られました。どのような逆境に立っても、決してへこたれず、現在の禅宗の基礎を築かれ、初祖達磨大師と言われるようになりました。

達磨大師の逸話は沢山ありますが、嵩山少林寺での「面壁九年」は有名で、九年もの間ひたすら座禅を続けられました。

縁起だるまは、まさしく七転八起の不屈の精神がそのまま具わっていると言えます。

BodhidharmaYoshitoshi1887
月岡芳年画
達磨を描いた『月百姿 破窓月』
(木版画 1887年)

高崎だるまの起こり

高崎だるまの木型高崎だるまの木型

高崎だるまは、今から二百数十年前の寛政年間(1789年〜1801年)に碓氷郡豊岡村の豪農・山縣友五郎によって生み出され今日まで作り継がれてまいりました。初めは、少林山達磨寺の東皐心越禅師の描かれた一筆達磨像のお姿を型取った座禅だるまでした。その製法は山縣家の秘伝とされ受け継がれましたが、明治に入り木型名人の葦名鉄十郎盛幸が豊岡村に住み始め、だるまの木型を専門に彫り始めます。これにより豊岡地内にだるま作りを目指す者が増え、大勢の人が作り始めるようになりました。これが高崎だるまのおいたちです。

また、そのだるまは、少林山達磨寺が創建当初から続けている七草大祭で売られるようになりました。これが「だるま市」の始まりです。

初めは、達磨大師のお姿を描いた座禅の形でしたが、養蚕の発達とともに、繭の形に似た縦長の繭型だるまに形が変わってきます。上州は、昔から養蚕の盛んな地域で、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、蚕が古い殻を割って出てくることを「起きる」と言います。この言葉にかけて、養蚕農家では七転び八起きのだるまを大切な守り神として奉り続けてきたのです。養蚕の大当たりの願かけから、やがて一般家庭へと広まり、様々な願かけが行われるようになりました。

別名「縁起だるま」「福だるま」「祈願だるま」とも呼ばれる高崎だるまは、こうした時を経て郷土のみならず日本を代表する「かけがいのない」存在となりました。

だるまはなぜ赤い

赤色は、禅宗の開祖である達磨大師がまとっていた赤の法衣の色を表しています。また、だるまの前面に描かれている金色の模様は袈裟を意味しています。

江戸時代、赤い色は病を治すと言い伝えられ、疱瘡除けとして庶民に重宝されました。また、だるまの手と足は座禅の最中はその法衣の中に隠れ見えないお姿となっています。

だるまに目を

開眼のしかたは、まず、だるまさんに向かい合い、心を静め、願いを込めてだるまに向かって右側の目(だるまの左目)から願いをなぞるように墨で書き入れます。そして、一年間無事に過ごせた時、あるいは願いごとが叶えられた時に感謝の心を込めてもう一方の目を入れます。

高崎だるま

高崎だるまの商標登録

群馬県指定ふるさと伝統工芸品

高崎だるまが全国に波及し、日本有数の産地になるにつれ、県・市を代表する特産品として郷土の生んだ伝統工芸品となりました。その匠の高度な技術に対して平成11年度より「群馬県ふるさと伝統工芸士」が制定され、現在5人が認定を受けています。また、群馬県指定のふるさと伝統工芸品として平成5年に認定を受け、県内では第1号となる地域団体商標登録を第5003697号で「高崎だるま」として全国唯一だるまの地域ブランド登録を行っています。

高崎だるまは、まさに日本を代表するだるまと成長し、海外からも注目を得るようになりました。その為、台湾(2015年2月1日)中国(2015年2月21日)におきましても、商標登録を行っています。